昭和42年7月14日 朝の御理解
一般に良く申します。あの人は器量はわる、良くないけれども、心が美しいと。器量はいいけれども、腹の中が汚いと。根性が悪い、大体、そんなものかも知れませんですね。器量は良いけれど腹が悪い。腹は本当に仏様のごたるけれども、器量が悪い。私は、あの、信心というものは、えー、心も形も美しゅうなっていくことだと思う。それが足ろうて行かなければいかん。皆さんは、どうでしょうか。本当に、信心頂くようになって、自分の心の中に、段々有難い、親切な真心が自分ながら、自分で有難くなれるような、惚れ惚れするような心が、時々出けて来ると。信心によって、自分の心が、ほんとに、自分ながら自分の心を拝みたいような心が生まれてくる。そういう信心を、私ね、楽しませて頂くと。世の中には不思議なことが山のようにある。信心をさせて頂きよって、ここのところを私は、願わない人ほど不思議なことはないと思うですね。汚い、根性が。ね。それでおかげを頂こうと思うておる。言うなら、もっての外だとこう思うのです。それは汚い。ね。心の器量が悪い。けれども、汚いという自覚に立ってです。ね。ここんところも浅ましい。ここん所も汚いと。気付いたらそこんところを改めて行こうとする意欲があれば、それでいいのだけれど、そういう風に一つも感じない。それが、自然と態度にも出てくる。横柄な、横着な、何ともかんとも言いようのない、あれで御道の 実意丁寧神信心といわれるその実意丁寧神信心をしておるのであろうかと。ね。よく、御道の信奉者の中に見受ける、一つのタイプの中に、もう、実に、言うならば、行き届いた実意丁寧な態度の人がある。言葉遣いといい、態度といい、ほんとに、なるほど金光様のご信心、御信者というのは、ああなからなければならんだろうと思うような人がある。ところが、そういう人が、一つもおかげを受けてない。よくよく、まあ言うなら、観察をするとですたい。なるほど、ほんの、形だけが金光様のご信心ぶりになっておられるだけ。言葉遣いといい、態度といい、これなんかは、器量は良いけれども腹が汚い、という事になるのですね。惜しい、ね。心もですね、信心させて頂いて、自分自身のその態度と同じように、いわゆる、思うておること。ね。その思うておることの中にです。私は、自分の心の汚さ、自分の心のおかげの受けられない、もう、癌というものを見出さなければいけません。今、貴方が思うておること。まだ、相対して、誰さんとお話をこうしておる時に、自分の心の中。なるほど、 口には真を語っておる。果たして、口に真を語っておる通りに心が、心の中にあるかどうかというと、そうではないならば、ね。口に真を語っておるということは、器量が良いのだけれども、心に真がないなら、心は器量が悪いという事になる。信心とは、ね。心も、いわば、器量も、形の上に現れてくる器量も、ね。器量もええ、腹も美しいと。そういう信心を目指す人でなからなければおかげは受けられんと思う。もう、私はこれだけの人間ですから、と、例えば、ね。形のろくそな人がおるならですね。やはり心も、ろくそな人ですよ。自ずと心が、形、態度に表れてくるという。ね。おかげをいただきたい。いわゆる、言葉遣い一つの上にでも現れてくる。ね。本当に私共はですね、心の底から、もっともっと、おかげを頂けれる状態にならせて頂こうと一つ思わにゃいけん。ね。そのためには、今、自分の行うておること、ね。いわゆる、自分が今、形の上に現れていること。自分が 今思うておること。あのね、本当にその気にならなければおかげは受けられんとですよ、金光様のご信心は。ね。ほんなら、そうなることが私は、困ったことが難儀なことかというと、そうじゃないとですよ。自分で自分の心が拝みたいごたる。例えば、ひと時が一日のうちにあるとしてごらんなさい。ね。いわゆる、自分の思うておることに、ふっと気付かせて頂いて、まあ、自分は、ほんになんち有難いこと考えとる、考えておれれる自分であろうかと思うひと時があると仮定してごらんなさい。こんな幸せはないじゃないですか。ね。それが形の上にも現れてくる、言葉にも表れてくる、ね。それこそ、態度で、態度で示そう、心で示そうという事になってくる。
私もほんとに、言い換えれば、そこんところを自分自身に、えー、強く反省させて貰うて、ほんにそう在りたいと、思うんですよ。ね。ところが、なかなか実際は出来ません。出けんからと言うて、放ってはおかれん。やっぱそれに取り組んでいく、一生懸命。私は、その取り組んでおるというですね、態度がね、取り組んでおるという、いわば、模様が、雰囲気がその人の中に有ればですね。もうそれで許せると神様は思いなさるじゃないかと。まあ、あればっかりは、何遍言うたっちゃ、何べんしたっちゃ同じことを繰りかえりをしよる。ね。けれどもやっぱり、本気にその事を思うてはおる。ね。自分で自分の心が拝みたいごたる心にならせて頂きたい、美しゅうならせて頂きたいと、願うてはおる。ね。ところがその、本当に信心とはそれなのに、それを願うていないと言うならば、もう、それこそ、私は人間がよく用事で申しましょうが、空耳のしかたんごたる、あん奴ばっかりは。ね。いや、面見るとも嫌ちゃ。神様のことですから、面見苦しいとは思われんでしょう。もう、憎い奴だとは思われんでしょう。ね。けれども、やはりですね。いうなら、仏の顔も三度である。もう、それがおかげ頂きたい、おかげ頂きたいと、その、願わんならともかく、思うておらんならともかく、おかげを頂きたいなら、こういう心の状態にならにゃいけんのですよ、こういう態度にならにゃいけんのですよと、こういう修行もしなきゃいけんのですよと、いわれても、その事は行じようとはしない、守ろうとはしない。
昨日、昨日は、十三日会の後に、いつももう、ここ十年ももう続き、ああ、十三日会が始まったのがあれですかね、始まって直後から、あー、北野の堤さんのところで、まあ、十三日会の、まあ、一つの雰囲気とでも申しましょうかね。その、中心である、堤さんなら堤さんが、十三日会で本当にあの、神様の心に叶う一日でありたいと、こう願われる。十三日は本当に神様に喜んで頂ける私になりたいと、こう願われる。そのねがわ、その、有難いものをです。自分の家にももって帰りたいとこう願われる。しかも、家のもんだけじゃない、家族のもんだけじゃない、せめて、近所のいわゆる、信心隣組とでも申しましょうか、ね。江口の部落の人達だけにでも、それを分かち合いたいというような願いの元にここの、十三日会の延長がですね、正式にここの、いわば、あー、何々地区共励会というものではないですけれども、堤さんの、自分の、いうなら、止むに止まれぬ信心がです。そういう形になって現れて行きよる訳なんです。だからこれは、いよいよ検討した上にも検討していかなきゃならない。初めはそういうような気持ちで思い立たれた、いわばお寄りなんです。もう、何人か寄って信心話することを、お寄りといいます。たとえば、熊谷さん方でもそうである。二十日なら二十日という日を決めて、いわゆる、近所の信心のあるものだけが何人かが集まって、いわゆる、共励をし合なさる。信心話をしなさる。ま、それと同じである。ね。ですからその、雰囲気というものは、いよいよ尊いもの有難いものになっていかなければならんのだけれど、段々、日にちが経つに従って、有難うなっていかなければならない、成長していかなければならんのに、そうではない事になる。こういうような事であっては、その値打ちはないことになる。ね。お父さんが十三日会に、普通の時はともかくとしてです。おかげおかげに終始しておってもです。せめて、十三日だけは神様の心に叶わせて頂く私になりたいというので、いわば、ね。心も、心の器量も形の器量も美しゅうなりたいと願われる。そこに与えられるのが信心の喜びなんです。神様の心に叶う一日でありたいと願うたら、神様は喜びを与えて下さいますよ。それを、自分ひとりで、こうやって持っておくとにゃ、もう、勿体ない。それが、せめて、家族のものだけにでも、ね。家内にこの気持ちを分けよう。息子にも、嫁ごにも、そういう雰囲気を持って帰りたい。それを、もう、包み一荷だけじゃ勿体ない。せめて信心隣組の何人かの人達でも話し合って、まあ、お茶でも一服、お茶でも頂きながら、信心の話し合いでも致しましょうやと。ね。それが、いよいよ有難いものに成長していかなければ私は、値打ちはないと思う。そういうような、ことの、御祈念をする前でした。ある方が、あの、共励会ある時にあの、先生がたをお迎えにこんとは北野地区だけですねと言う話があった。ほんなこつの、北野地区だけが迎えにゃこんのち。ほんなこて、久富先生たちは、もう、言うなら、椛目から一里半ち言いよったが、こっからならもう、十分二里あるでしょう。ならもう、ガッチャンヒッチン言う自転車で、それこそ、雨が降ろうが、暑かろうが寒かろうが、久富先生が気持ちのようして行かれる。勿論、指名があて、久富先生をということであったから。久富先生が行かれる。最近では、大和さんがおかげを頂かれるらしいですよ。ね。そしてまた、十時までなら十時まで、十時半なら十時半までお話をしたり、御祈念をしたりしてから、また帰って見える。大体、北野の方ですから、そうでも、そんなにせんでも良かろうごたるけども、そこが先生の信心なんです、いわば。一応はまた帰ってきて、そしてまた北野へ帰られる。何べん往復されるか。もう、普通のもんで出来るこっじゃないと私は思う、それだけでも。そう、ほんなこつの、北野地区だけは誰も迎えにゃこんのち言う。けれども、迎えに来るとが本当か、迎えにこんのが本当か、そんなこつは問題じゃない。私は、本当に、私もほんなこつのと思うた。そしてあの、御祈念のときに、そして、御祈念に掛かりましたら、御祈念に掛かってから、私が思うことなんですよ。ね。ほんに、十何年前、私も、もう、お床に何人かが集まって、お父さんお話を頂きたいと、と言われりゃ、それこそ、三里でも四里でもテクテクと歩いて行ったもんである。それは、三里も四里も無い。ただ、あそこに、あーたの話しば一辺、聞きたい聞きたいち言う人があったと、こういわれると、そこまで、もう、それこそ、炎天の最中であろうが、テクテクやっぱり歩いて行ってお話させて頂いた。してみると、ほんなら、こっから先生方がああして行っても、ほんならば、あー、共励の指導部ですか、に、の部長になっておられる大和さんがおい出られる事もです。はっでも勿体のうしてから、迎えどんが来るなら、もう勿体ない、とても辞退せにゃおられないち。二人でも三人でも、私ぐらいのもんの話を聞いて下さるというのならばです。ね。とても、それは歩いてでも、やはり行かせてもらわなければおられない。そういう信心には、一つの熱情と、その美しい物がなからなければいけない。もう、やらせて頂きますと、もう、それこそ、心から待って頂いておる。喜んでもらう。もう、話は尽きる事がなかった。ね。そして、もう今晩、泊まっていって下さいち言うような事であった。あくる日は、もう、何かにと、もう、もうそれこそですね、来て貰うたけんのお礼じゃない、私が、そういう状態のときですからです。ね。あんまり砂糖が無いときですから、もう、サッカリンが手に入ったからと言うては、ま、少しばかりのお米をもう、私は、そげんとを貰う楽しみでも、なーんでもないけれども、やはり、そうしなければおられないのです。いわゆる、美しいものと、美しいものが出会う。私は、勿論、そんな、なるほど無理やりに頂きますものを、自分で、自分が頂いたことはひとっつもございませんでした。お野菜一本でも、必ず親教会に持って行きました。ね。そして私は夕べ、久富先生、ただ帰って見えましてから、また、一時間ばっかり、その話をしたんです。今日ね。あなた方がいった後に、こげな話があったんですよと。けども、よくよく考えてみたら、ほんに、それどころじゃないけれども、けれども、久富先生、貴方がもう、何年通いなさるかと。ね。なるほど、来ても人がお参りも出きんごと、いってから、帰ってきてから、また帰らんならん、北野じゃけ。そうでしょうが。だけど、言うなら事を成されておられるのに、江口の人がどれだけおかげを受けよりなさるでしょうか。どれだけ、貴方の、は、今日はまた久富先生の、あの生き生きとした体験をお話頂かれると言うて、どれだけ待って頂いておるじゃろうかと。家族の人達が、今日は久富先生が見えるけんち言うて、どれだけそれを楽しんで十三日の日を待っておられるだろうか。ね。そん為には、やっぱりです。例えば、何日お参りが頂けんにしても、今日が、北野の十三日のお寄りがあるという、それに、私が今日、お話しに行くというなら、朝からぐらいは、一つ修業させて貰うて、本当に神様を身近に頂いて、言うなら、今日の御理解で言うなら、本気で、形も美しゅうなり、心も美しゅうなろうという事に、本気で努めて、そこから生まれてくるところの体験。そこから生まれてくるところの喜びを江口に行ってお話しなさるならばです。私は、もう少しぐらい江口が変わらなければいけんがねと言うて話した事でした。ほんなら、こら、反対の事を言うてもいい。堤さんの方から言うてもいい。ね。本当に、十三日会の延長としてです。ね。そうしたお寄りでも在っておるだけの、信心の喜びというものが、果たして、どれだけ育っていきよるだろうか。心の上にも、態度の上にも、ね。もう、ほんなこて、もうこの頃、堤さんが、ね。総代の大役を受けておられる。町では、町会議員という、言うなら、大きな職に就いておられる。いわば、実がいってきた。実が入って来られたら来られるほ-ど、あっちは、なんか地が低くなっていかれる。頭が低うなっていかれる。さすがに、内容が信心を持っておられるからだという事になって、果たして行きよるだろうか。こりゃ、私のほうでは、分からんとですよ。堤さんだけしかお分かりにならんとですよ。ほんとに、折角こうやってお寄りをさせて頂きよるが、堤さんとこのお寄りは、何とはなしに楽しい。ね。これは、大和さんが言うておられました。おかげを頂いてから、こういう大役をさせて頂くようになって、ね。本気で、先生やっぱ、先生、本気で拝まにゃ駄目ですねという話からです。夕べ帰ってきて、私は、丁度、あの話を頂く前まではですね。畳を二枚抱えたら、目がぶらぶらしてから、もう、こげなこと、畳はやめなんちいうごとあったそうです。あの、部長という役を受けなさる前までは。ところが先生、おかげを頂いてから、各、いわゆる、共励会に、ああして行かれる。もう、本当にそれを境のごと現在ではですね。だから、睡眠も取られない訳です。にもかかわらす、それが忘れるようにおかげになって、もう今は、十枚口どん、二階さん、例えばかたげて運んでも、息切れもしなければ目まいもしない、と言うおかげを頂いておりますというて、昨日、言われますから。そんなお届けは、しなさいますじゃろかち言うて久富先生が言いなさいますもん。いいえ、聞かんですよち。そしたら、ぼちぼちあの人は大体、無口ですから、そのおかげ受けれれておることを、あれ以来、こう言う事、ああ言う事、それもやっぱり、本気でその気にならなければ駄目ですねと言うてはなされるのですよ。ね。心配り、本当に、もう、みんなに一人でも本当に喜んで貰いたいと思うなら、先ず、自分自身が喜びを先ず、頂かなきゃならない。それを、一人でもいい。そして、昨日、十二日は福岡で、もう、この前の、から頼まれて、福岡にも行かれるんですよ。ところが、福岡の共励会は一時ごろまでする。ま、それから後、またやられるそうですけども、私共は、一時ごろまでで、帰ってくるんですけどもですね。福岡に行くと、もう必ず、お話に行ってお話を聞いてくるというか、この頃は、福岡に行くことが、家内が楽しんでおりますとちこういわれる。だから、お父さん、福岡なら私も連れて行ってくれと、こう言われるのです。そして、私もおかげ頂いて帰るけれども、家内がおかげ頂いて、何か知らんけれども、もやーもやしておった者が、福岡に行くと私は、あの、おかげ頂くという。貴方がもう、共励会、共励会ち言うて行くけれども、ここならそれを、本当にそげんまでと思いよったけれど、ね。あちらにお参りさせて頂くと、お父さんが大変な役を頂いておるもんじゃ在るなあと、後ろから、こう引きずり落とすような思いが、反対に、後押しをしてでもというような気持ちが出来てきたと言うて家内が申しますと、こう言われる事はです。福岡の共励会の中に、そういう有難いものがあるという事なのです。私は不思議でたまらん事がある。ね。それは、私が今日申しますように、なるほど、信心が分からせて頂くと言う事は、ね。信心をしておれば、一年一年有難うなっていかなければならない。ね。だから、そこんところをです、ね。自分の今思うておること、自分の今行うておることと、というような事をです。ね。こういう心の状態でならせて頂くということが、いわゆる、おかげを頂く事であろうかと。もう一つ不思議なことがある。ね。そういう風に、全然思わない人。如何にお参りが出来てもです。ね。態度の上にでも、心の上にでも、美しゅうなろうという、ね。浅ましい根性を取り払うていくという事にです。楽しみや、喜びをいただきたいと願わないということが不思議でたまらん。ね。同時にこれだけの神様を頂きながらです。そこんところを辛抱し抜ききらんという人がある。こがしこお参り、こげんお参りしたけれども、おかげいただききらん。ね。あれほど、信心辛抱のことを頂いておるのに、そこの辛抱をし抜ききらんと言う事も、不思議でたまらん。なぜなら、他所でなら知らん。けれども、ここでならば、なるほど、辛抱しぬきゃ、あらゆるおかげを受けられるという、幾らも見本手本があるのに。もう、本当に、私、日々、いわゆる責任を感じますねえ。神様から頂いて、こうしてお話を、御理解を頂かせて貰うと。これだけのご理解を頂きながら、みんなが、どうして本気でその気にならんだろうかと。ね。しかも、その気になることも、やっぱり、本気でその気にならせて頂くと言う事。私は、形はこうだけれども、腹が良か。という人でもです。ね。腹が良かだけじゃいかんです。やはり、形の器量もようなる事に努めにゃいかん。形が出来ておるからと言うてです。それで、お腹のなかが綺麗と言う事は言えんのです。ね。形に表れておる、ほんなら、美しさがあるなら、それが、内容にもほんなら、我と我が心が拝みたいごたる心持が、せめて、日和に一回ぐらい、そういう気持ちにならせて頂けることが楽しみで、おかげを頂いていくなら、それは汚い。それは、出来んにしてもです。ね。その意欲しておる、その事に対して神様は、私は、おかげを下さると思う。それもやはり、その気で、本気でならなければいけない。ね。そうして、私は思う。ね。二人でも、三人でも、もし、私共のような話でも聞いて下さるなら、二里、三里は遠いとせずにです。それこそ、歩いてでも、この有難い話を聞いてもらいたいなあと、聞いてくれる人があるなら、私は、行かにゃおられんというような心が、相手にも通うと思う。自分だけでは、持っても勿体ない、溢れるようなものが私は、出てくるようなところまでです。お互いの信心を高めて行きたいと思うんですね。今日は、特に私はその、ね。心の器量の良か人は、ね。形の器量が悪いと、一般では言うですけれど、信心は、ね。器量も良かが、心も綺麗だというような、そこんところを願い。私共はどちらに片寄っとるかは知らんけれどもです。欠けておるほうに本気で取り組ませて頂いてです。ね。器量も形も、美しい、器量も良ければ心も美しいという、私たちになろうという意欲をです。本気で持たして頂くという事。その気になると言う事。ね。そこから、私はおかげを頂いていくおかげであって、本当の、悔いの無いおかげであると私は思うですね。どうぞ。